昭和41年01月23日 朝の御理解
互いが信心をさして頂いておる、その対象、天地の親神様、天地金乃神と言う方は、天地を一目に見ておるぞと言われる神様。清き所も汚き所も、隔てなく御守りある神様、遠い所も近い所もない、頼む心に隔てなく祈れば、おかげの頂けれる神様、私し共が、頂いておる神様は、そう言う様な神様。そう言う神様をその様に、この表わして行くと言う事が、神様の御喜び。
又、私共の幸せとこの神様も、清い所も汚い所もないんだなあと、生神金光大神のお取次を頂いて、生神金光大神天地金乃神と祈る所、そこに天地金乃神の働きが頂けると。勿論、遠い事もなからなければ近い所もない、どこから願っても時間空間と言うものも無い、働きを下さる神様。成程、そう言う神様だとこの、それが表わせうる所の信心。成程この神様は、天地を一目に見ておると仰るが、成程天地を一目に見て御座るんだなあと、分からして頂く信心。
そういう信心を皆さん目指し、そういう信心を頂いていかなければいけんのです。あれは俳聖芭蕉と言う、俳聖と言われた芭蕉の晩年の句に、「この道を来る人もなし、秋の暮れ」とまあ読んだそうです。俳句の道のその深さ広さと楽しさと言う様なものはです、もう是で良いと言う様な事ではない、限りがない。唯、道楽半分に弟子入りして来る人達は、あるけれども、自分が今辿っておる所、自分が開いておる俳句でひらい、俳句によって頂いておる所の境地。
こういう素晴らしい境地があるんだけど、ここまでは皆んなが付いてよう来ないのだ。実に淋しい事だと言う心境だった句だと言われております。金光大神も又おんなじ事を嘆かれる様な事はなかろうかと私しは思うんですね。金光大神が教えた事を間違いなく受けた。それを子子孫孫に伝えて行く「祝いめでたの若松さまよ、枝も栄える葉も茂る。と言うではないかと生神金光大神は、家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃ」と。
そういう道を、教えて、おられるのであり、そういう道を、私し共は体得しようとしておるのだけれども、いわゆるもう、ここまでで止まってしまう、その証拠には、私し共が知っておる限りでも、随分の信心、御道の信心によって、おかげを受けた方が、おかげを受けられた。所がそれが、子に孫に伝わっていない。金光大神の、道のいわゆる奥雅と言った様な物、を体得してなかったと言わなければ仕方がない。
金光大神が嘘を仰るとは思われない。結局、唯、おかげに左右された信心、成程おかげを頂いたけれども、おかげ、本当の金光大神のお教えて下さる道を、体得してなかった。その証拠には、家繁盛にも子孫繁盛にもなっていなかった いやむしろ、子供に孫に、全然信心も伝わっていないと言う様な事では、私しは相済まん。そこで、今日私しが申しております信心、この神様は天地を一目に見ておるぞと、仰る神様だなと。成程私し共の信心の心によって、それをキャッチするとでも申しましょうか。
成程天地を一目に見て御座る神様だなあと言う事を、どこから拝んでもよいのだと、それは清い所も汚い所もない、天地の親神様は、隔てなく御守り下さっておるのだなあと言う事が分かる信心。成程遠いも近いもないんだなあと、頼る所に隔てなく、こちらが祈りさえすればと言う、その祈り、そういう祈りが出来る信心。立ち所に天地金乃神の、御徳をここに表わす事が出来ると言う信心。
時間も、なからなければ、空間もないと言う信心。どこで誰が願っても、椛目にお参りをしてこなければ、親先生がおらなければ、おかげを受けられないと、言う様な信心から脱皮して、そんな様な信心を互いが身に付けさして頂く所から、私しがそれが子に孫に、子子孫孫に。それは金光大神様が、教祖の神様がですね、二代、そして三代と、現お広前金光様、四代様に至ってです。
矢張り御道の信心と言うものが、また金光家と言うものがです、どの様な場合に、直面されましても、言うなら貧乏揺るぎもしないで、ああして繁盛のおかげ一途を辿っておられると言う事実があると言う事、にも係らずなら、片や地方の方にでも参ると申しましょうか。他の所を眺めて見る時にです。成程先代の時には、あれだけのおかげを頂かれた教会が、あれだけおかげを受けられた御信者がです。
その子供に孫に、伝わっていかないと言うのはです、芭蕉がなげいたと言う、俳句の精神の、ギリギリの所まで追求してくる弟子がいない。御道の信心においても、おんなじ事が言えるんだと。唯、お取り次を頂いて、おかげを頂くと言う信心に終始しておる、そういう信心から、いよいよ脱皮に脱皮さして貰うて、おかげを頂いていかなければならない。今日私し、御神前にやらして頂いたらね。
ちょうど、二日市の大宰府さんなんかにもあるらしいですね、あの昔は草野の町でも、祇園さんでそれがあっておった。鷽替えと言うのがあった、正月の行事なんですね。夜中に若い者が、ワッショイ、ワッショイ、その銘々にその嘘を持っておる。その金の嘘と言うのが、その金の取り替え、取り替えして行く内に、本当の嘘を掴もうという訳けなんです。現在私し共が頂いておる信心は、それは成程真実の本当の信心なのだ。
けどもよく分からして貰うと、それは真実の真実ではない事が分かる。皆さんが今体得しておられる信心は、確かに椛目で体得した信心なのだから間違いがないのだけれど、しかしそれを、もっと本当な信心があるのだと言う事。無限に限りなく、真から真を追求して行く。真実から真実を追求して行くと言うのが信心なん、これだけの事が悟れたから、これだけの事が分かったから、それで良い済んだというのではない。
切が無いだから中々一足飛びには行けません。けれども結局現在もっておる嘘と言うものをです、真実のものに取り替え取り替えして行くのである。言わば皆さんはそういう稽古にここには通って来られるのであり。そういう稽古の上にです今日私しが申します様な信心を表わして行かなければいけん。成程ここから拝んでもどこから拝んでも、天地金乃神様の御威徳を表わすと言う事はどっからでも出来るんだと。時間も空間もないのだと。と言う所まで表わして行かないと教祖の神様は嘘を仰った事になる。
そうでしょう、そこで私し共はですね、そういう信心を目指し、そういう信心を頂かせて頂く為に、元気な心で信心をしなければいけないと、言う事です。元気な心で信心せよと。元気な心とはどう言う様な心かと言う事を先ず、私しは分からなければいけない。追求していかなければいけない。この寒中寒いのに、皆さんが椛目、椛目と言うて参ってお見えられる。今日は熊本からこの御祈念に今参って来てる方があります。
もう四時頃ここに着かれた。随分と青年の方ですけれど、元気な心がなからなければ、又思い切った神様へ向ける心と言うものが、強なからなければ出来る事ではない。成程そういう心も元気な心。これも昨日熊本から、お参りして来た方なんです、お届けして言った。先生今度の二十五日には、熊本私し共のグループだけで、椛目に歩いてお参りさして頂こうと言うて、話し合いをしております。
ほう福岡からはちょいちょい歩いて来る人があるけれど、伊万里からも歩いて来た人があったけれど、まだ熊本からは自転車で参って来るくらいで、歩いて来るとはあんた達が初めてじゃなと、言うてまあ申しました事ですけれども、とても元気な心がなからなければ、出ける事じゃない。とても、元気な心がなからなければでける事じゃない。この寒中に言わばこの寒中だけを、やら、今ここではそれは致しませんけれども、他所の教会では、まあ寒中の修行があっておる。
日頃はお参りが出来なくても、せめて寒中修行中の間だけでもお参りをしようというので、あの寒の入りから寒の明までですかね。をまあ期間としてお参り、信心を続けておる人達がある。椛目ではそんなわざわざ寒中修行と言う事は、致しませんけれどもね。その様な事ではです、一時的ではあるけれども、わぁっと言う元気な心を出さなければ出来る事じゃない。そう言う様な心も、元気な心。けども今日は、私が一番初めに申しました様にね、この神様がです、天地一目に見て御座ると言う神様。
遠い所も近い所もないね。こちらの頼む心に隔てなく、祈らして頂けば立ち所に、ここに天地金乃神のお徳を表す事が出来ると言う程の、信心がです、今日私しが言う元気な心を以ってしなければ、それを体得出来ないのですね。体得出来たから、それで良いと言う事でもないけれども。それはもう限りがない。真実から真実を求めぬいて行くのであるから、限りがありませんけれども、ならそういう元気な心とは、どういう心を、元気な心と言うのだろうね。
いわゆるまあ今日、今日はこれが真実なのだ、明日は分からん。私しが思うこれが元気な心だと言うのはね、あれはあの皆さん安全ぴんと言うのがありましょう、ここにこうする安全ぴん。安全ぴんをこう止むる所が、こう針金がこう一重まわっているでしょう、どんなに締めましても、ポット元の所に戻ってしまうでしょう。こう一つ回ってるでしょう、あそこ安全ぴんが、どういう所に置かれてもです、どういう場合でもですね、安心しておれる心なんだ。
それには安全ぴんの、今のこのばねの所ではないですけれどもです、例え叩かれても叩かれても、ちゃんとおんなじ所に、何時もちゃんとあると言う事。ひっこんでないと言う事。どんなに、例えばお試しを受け様が、受け様がです、矢張りもとの所にちゃんと出て来ておる、どんなに先生から、喧しゅういうて怒られようが、怒られようがやっぱり、ここえちゃんと参って来て御座る。そういう人があります。
あれが腹けち帰ったけんでもう、明日は違わん参って来んじゃろうと思いよる事がある、けど勿論もどった後には、そら私しも一生懸命祈ります。それが憎くうて怒ったんじゃないからです。そういうこつでおかげが受けられるか、おかげを受けたいて、言うとるじゃないか、そげな信心でおかげを受けられる筈はないじゃないか。もう、そげな信心は辞めてしまえと、まあ言う訳なんです。
それでもうそん時は、もう涙を流してから、腹かいてからも、これだけも、一生懸命なっとるとにも、そんなに言うごたるなら、もうから信心は辞めたと言う様な風で、帰りますけれどもあくる日は、又ちゃんと出て来ておる。私しはそういう信心だと思う。元気な心と言うのはね、叩かれても叩かれても、又元の所に出て来ておる。いやむしろ叩かれる度んびに飛躍して来ておる。願っても、願っても。おかげにならん。
それはあの小野東風と蛙の様なもの、蛙が柳に付いておる。露を虫と間違えて一生懸命とる。くり返しくり返し飛んでる内に、その柳の枝に飛び付いたと言う、なごう飛びつけなかった。願ってもこげん飛べなかった。そこで、又工夫をするぞ、これはまだ間違いがあるに違いはないのだ。どこにか自分の信心の間違いがあるのだ、真が足りんのだと、そこんところを追求して行く。それで叩かれても、矢張り同じ、又元のところに出て来ておると言う様な信心。
ちょうど、手毬の様なものじゃ、パント下に投げたからと言うて、もうそれぎり落ちぎりじゃない。また返って上にポント飛び上がっとる様な信心じゃ。バネの様なものじゃ、どの様に踏まれても、踏まれてもです、ピント又元に出て来ておる。バネ仕掛けの様な信心じゃ。そういう信心を、私しは、元気な心とこう思う。元気な心で信心せよと仰る。元気な心で信心をさして頂くとは、只今申しました、例えば、熊本あたりからでも、朝の御祈念に参ってこうかと。
歩いてでもお参りしようか。この寒中だけは、一日だって、欠かさんぞとその心も矢張り元気な心ですけれども、そういう信心からどういう信心を身に付けて行くかと言うと、より本当の、元気な心を頂く為に、信心の稽古をさして貰う。そこに成程神様の働きは間違いないんだなあと、成程天地を自由にしなさる神様だなあと、天地を一目に見て御座る神様だなあ。
遠い所も近い所も、清い所も汚い所もないんだなあと。どこから願っても。矢張り、天地の親神様の御徳というものを表わす事が出来る、頂く事の出来れる神様だなあと、言う事をです、分からして頂くと言う様な信心を目指す。そこに私しは、金光大神を、嘆かせんで済むと言うかね。まあ、そうでは無いですけども、この道を来る人も無しと、言う様な淋しい思いを、神様にさせんで済む信心。
そういう信心を、いよいよお互い進めて行きたい。お互いそういう信心を身に付けさして頂く所に、私しは金光大神の仰る事が、成程本当だなあと、成程子供にも孫にも、末の末までも教えて、伝え、伝えて行けれると言うのは、そういう信心だなと。親の代より子の代、子の代よりも孫の代と、繁盛のおかげの頂けれる。私しは土台の信心とは、そういう信心を身に付けて行く事だと思う。
どうぞ、おかげを頂かれて下さい。